この夏、eatreat.が料理教室の生徒さん向けにお届けするリトリートプログラムをインドで初開催しました。合計11名、2つのグループに分かれて2週間開催したリトリート。1年間通ってくれた生徒さんたちだからこそ、みんなセルフケアもばっちり。大きく体調を崩すことなく、健やかに穏やかにプログラムは進んだのですが、平和な時間の中にも光の粒のように輝く”気づき”多き旅となりました。旅のレポートをお送りします。
椰子の実がこの街の宝もの、この街の人の姿「バルカラ」



リトリートの舞台として皆さんをお連れしたのは南インド・ケララ州「バルカラ」という海沿いの街。この街にインド人の男性と結婚をし、お子さんを育みながらリトリートプログラムなどアーユルヴェーダのホリスティックケアサービスを展開する「maitriiherbs」岩本めぐみさん(通称めぐちゃん)が暮らしています。

今回のリトリートプログラムはめぐちゃんとふたりで企画し、eatreat.の生徒さんたちが望むものはなんだろう?と趣向を凝らしてゼロから作り上げたものです。これからもずっと続けていきたい。ずいぶん昔からSNSでは繋がっていたけれど、今年初めて対面でお会いした彼女は、私にとって初めから懐かしく心を開けた貴重な友人です。
そんなめぐちゃんと、5月にお会いした際に長く長く語り合った私たちの会話の中で頻繁に出てきたテーマは「この街の人は、本当に”今ここ”ということを知っているし、人はみんな違うということを本当に受け入れている」ということでした。
“今ここに集中する””みんな違ってみんないい”耳障りのいいこうした言葉を、私たちは安易に使いがちですが、果たして本当に心底そう思えているでしょうか?
“今ここに集中する”と言いながら、未来を憂いたり、過去について後悔したりしていないでしょうか。”みんな違ってみんないい”と言っておきながら、思い通りにならない人をコントロールしようとしたり、過去に体験したコミュニケーション不全を目の前の違う人との間に置き換えたりしていないでしょうか。
バルカラの人たちと触れ合い、言葉を交わしていると、まだ来てもいない未来を心配したりしている暇なんてなさそうです。「袖触れ合えば多少の縁」を地でいくこの土地の人たちは、海辺でちょっと目が合ったあいつと今はもう友達。今会ったばかりなんて思わせないほど親しげに会話を楽しみ、食堂で隣に居合わせた人が慣れない土地で困っていたら「オムレツは要るか」「チリは少なめにするぞ」とおせっかい上等。いい意味で、基本的に誰も一人にはしてくれないのです。
誰かを助ける時。それは例え、過去に同じようなケースで同じように助けて、騙されてしまったからといって、目の前の人は違う人。全く違う人なのだから、その人が困っていたらまた同じように助ける。
スマホとか、他のことに注意散漫になったり、よそ見をしていないで目の前の人と対峙する。違うと思ったら違うと言って、だからと言って相手を認めないわけではない。それぞれがそれぞれの「現在地」を知っていて、確かにそこに立っている。だからこそ得られる自由がこの土地にありました。
こうしたバルカラの人たちの姿は、この土地にたわわに実る椰子の実の姿そのもの。ケララ州の「ケララ」は「ココナッツの国」という意味です。その言葉通り、この土地の人たちにとって、ココナッツは食卓に欠かせない天からの恵みそのもの。このココナッツが自由自在に自然と育っているからこそ、海から吹き抜ける風が熱い土地の熱を程よく冷ましてくれて、文字通り風通しの良いまちにしてくれるのだと思います。
アーユルヴェーダ・リトリートと言っても主催する人によって届けられるメッセージは様々。私は先生としてみんなに何を伝えたいだろう?と考えた時に、象徴的なメッセージよりも「このバルカラで存分に”感じて”ほしい」という想いがありました。バルカラはその自由さとおおらかさが、eatreat.の考えるアーユルヴェーダにとってどこよりも相応しい土地です。
自分の「消化力」にフォーカスして。お腹を壊さないリトリート。
ツアーを開催するにあたって、主催の私がみんなと約束したのは少しだけ。
「とにかく買い食いはしないこと」「水を飲む時はガイドが安全だよと言ったものだけ」そして「すべての食事を良いもので用意するけれど、食べる量や内容は、自分の消化力と向き合いながら」ということでした。

お母さんたちが用意してくれたバナナミールス

アーユルヴェーダ・クリニックでパンチャカルマの時に施される料理のクッキングクラス

ヨガクラスの師匠、Swamiとともに囲むマクロビオティックランチ。

めぐちゃんの旦那様、スニちゃんのクッキングクラス。

まちの人が好む食堂で食べる朝ごはん。
どれもこれも本当に美味しくて、参加者のみんなも自然と、最初の食事から手で食べてくれました。インドでは「手食」がスタンダード。手で直接食事を口に運ぶと、食べものと自分との間に隔てるものが何もないので、ずいぶん味覚が違って知覚します。食べものの温もりや触り心地、スパイスの形や大きさなんかも感じられて、身体に入っていく時の感覚が変わるのです。
今回のプログラムの中で、家庭にたくさんお邪魔して、現地の料理をたくさん教わったり、ヨガやアーユルヴェーダの施設で普段提供されるものを供していただきました。めくるめく食事の体験の数々。
インドではまだお皿が空にならないうちにどんどんおかわりが盛られていくので、ついつい食べ過ぎてしまいますが、私たちはまだ旅の途中。旅の最中はvataも上がり、普段とは違う慣れない環境で消化は停滞しがちです。でも、アーユルヴェーダで最も大切なのは「消化力」です。
消化力には体質と同じように、その人それぞれの強弱やタイプがあります。傾向を知った上で、その時々のタイミングで変化する力の程度を知る必要があります。例えば、普段だったら3食きっちり食べても翌朝スッキリ大便が排出できて、かつ朝からお腹が空く人でも、旅先だった便秘気味になるし、朝から空腹を感じていないことだってあるのです。
旅先では興奮状態になり「ここでしか食べられない」と自身のお通じの調子や本来の食欲を無視して食べてしまいがちですが、こうした時だからこそ「食べられる程度に食べて、日々のお通じも観察して」とみんなにお願いしました。
インドのリトリートプログラムは巷でたくさん開催されているのですが、リトリートに行ったのに現地でお腹を壊して病院に担ぎ込まれたり、帰国した後の体調不良が悪い人が続出したという話もよく聞きます。それはインドだからなのでしょうか?その一面もあるかもしれないけれど、アーユルヴェーダのリトリートに来て、消化力と向き合わないというのは、本来のテーマを真っ向に無視するようなものです。
心を尽くして山盛り盛られた美しい食事を前にして「足ることを知る」というのはなかなか苦しい体験だったと思いますが、1日また1日と日を重ねるにつれて「これが本来の心地よさ」というのを手に入れることができ、生徒さんの顔が晴れ晴れとしてきたのを確認してとっても嬉しかった。
その心地よいところにいるとき、肌がツヤツヤとし、白目が輝き、舌が綺麗で、呼吸を深くまでできる自分がいること。消化の過程に対し、気持ちの流れ、栄養や酸素が身体の隅々まで行き渡ること。それらに確かな関連性があることを理解して、きっとその心地よさを忘れないでほしいなと思います。
アーユルヴェーダの料理とは「純粋な愛情の賜物」
「アーユルヴェーダの料理ってなんですか?」と聞かれたら、この記事を読んでいるあなたはなんと答えますか。私は取材の時もお客さんにもよくこの質問をされて、毎度言葉に窮しています。返答がなんとも長くなるんですね。
そもそもアーユルヴェーダが体系だった古典医療だということも伝えなければならないし、その土地の風土や気候、食べる人の体質や心の状態に合わせてバランスするように、病気の人の病気を鎮静し、元気な人はもっと元気にする料理です云々カンヌン…と続きます。
しくはくしながらも、私が毎回強調しているのは「別にインド料理だけがアーユルヴェーダではない」ということです。それはヒンドゥー教ベースの菜食主義だけがアーユルヴェーダではない、ということでもあります。
アーユルヴェーダはインドで生まれた古典医療ですが、その中には「リトゥチャルヤ」といって「季節の過ごし方」の章があります。そこにはさまざまな風土や体質、時節に触れ、それに合わせて肉魚米野菜スパイス、どの食材をどのように調理して、どのような食べ方を重んじて食べると良いか。消化力は一年や人生の中でどのように変化するのか。それを説いています。
遠きインドといえども同じ地球の上。私たちはそのリトゥチャルヤを紐解きながら、自分たちの条件に合わせて料理を考えて初めて、アーユルヴェーダの智慧を食卓に還元することができます。

写真は、ムスリムの家庭にお邪魔した時のこと。このビッグママにはクッキングクラスで「チキンビリヤニ」を教えてもらいました。イスラム教なので日常的に肉を用い、インド料理をベースに、風邪を引いた時にはマトンスープを飲むこともある。今日はご馳走だ!となったら近所の肉屋でまだ生きている鶏をその場で捌いてもらい、透明感に満ちた丸鶏を鮮やかに仕立ててくれます。
「ごはんを作ることが好きで、たくさんの人に振る舞うのが幸せ」と笑うビッグママの手からは何か出てるに違いない。そう思わずにはいられないほど彼女が作る料理は本当に美味しくて、普段少食のメンバーも思わず「おかわり!お肉も!」と笑っていたのが忘れられません。

これはグループ2のレッスンでビッグママがお粥を作ってくれた時のもの。ケララのお粥は「カンニ」と言ってブロークンブラウンライスをココナッツミルクで煮込むシンプルなお粥です。このココナッツミルクは、まずフレッシュのココナッツの実を削り出し、そこからココナッツミルクを一番搾り、二番絞り、三番絞りと絞って、三番から順番にお粥に加えていく。ただそれだけなのに、加えるたびに味見をさせてもらうと、細胞一つ一つにミルクとお米の滋養が染み渡る音がして、思わず目を細めてしまう。みんなでお粥を囲んで食べた時には、ルチのスタッフが一番先に泣いてしまったほど。
私たちの身体を構成する要素の間の通り道がスムースに、穏やかに流れていって、これが「食べもので滋養されることなのか」と驚くし、この通り良さはなんと言っても、作る人の愛情の深さと、それゆえに食べる人が信頼し、安心しているからこそ起きる奇跡にも似た事象なのだとしみじみしました。
料理は複雑でなくていい。せっかくの食材をこねくり回さなくていい。ただ作る人の立ち姿と、そのあたたかな想いと、火と水と空気があればそれで充分に人を滋養します。アーユルヴェーダの料理とは、関わる人全ての「純粋な愛情の賜物」なのではないでしょうか。
ビッグママがフォローしているのはヒンドゥー教ではなくイスラム教です。でも、彼女が作る料理は消化に良く、できたてで、風土や体質を重んじ、人を隅々まで滋養するものです。これがアーユルヴェーダの料理でないとしたら、何がそれだと言えるのでしょうか?
何度だって”わたしの現在地”に立ち返る、それがアーユルヴェーダ。
ツアー中は、森の中でヨガをしたり、道場で世界最古の武術「カラリパヤットゥ」も体験してもらいました。ヨガと武術、そしてアーユルヴェーダのドクターのコンサルテーションでもみんな一様に言われたり、ハッと気づきがあったのは「身体の歪み」または「身体の詰まり」。
特にヨガクラスの最後にSwamiが施してくれた「ヨーガニードラ」はわかりやすく、日本で暮らしているときは普通に身体全体を程よく使っていると思い込んでいるけれど、実は身体のあちこちの部分が置き去りにされていることに気づきます。仰向けになって寝転んで、足の親指に、かかとに、膝うらに、太ももに、意識を持っていってと言われても、どれくらいのメンバーが確かな具体性を持って自分の「部分」を感知することができたでしょうか。どこもかしこも置き去りにされていることに気づいたのではないでしょうか。
どこかを置き去りにする代わりに、別のどこかに負担がかかると、そこが歪んだり固くなり、コリが生じて、痛みが現れる。痛みすらも放置していればそこが硬直し、流れを止めます。流れなくなるのは栄養素でもあるし、熱でもあるし、老廃物でも、未消化物でも、気持ちでもある。スタックし、出ていくものが出ていかなくなる時、そこに小さな病の種が発生します。
ヨガもカラリパヤットゥも、アーユルヴェーダの毎日のセルフケア「ディナチャリヤ」にも共通していると言えるのは、1日をスムースに穏やかに過ごしていけるよう身体の流れをできるだけケアするということです。
リトリートの平和な時間から解き放たれて日常に戻ると、どうしたって生活は続きます。毎日いろんなことがある。そうなると詰まりが全くない身体、歪みが全くない心なんて成立するのは難しくなります。あっというまにコリを感じたり、痛みが現れたり、疲れを感じたりする。
でももう自分の身体のどこかを置き去りにしない。リトリートで感じた食事の沁み入るようなおいしさ、ヨガをした時の深い呼吸、カラリパヤットゥに挑戦した時、背骨がほぐれていったあの体感を思い出しては、まずは無理をしない。もう一度、呼吸から始めてみる。
みんなに必要なのはこれ以上頑張ることじゃなくて、リラックスの練習です。そうしながら、何度だって「その日のわたしの”現在地”」に立ち返る。アーユルヴェーダは昨日でもない、おとといでもない、まだ未来は来ていない。今日この瞬間だけの自分を見つめ、そこに立っている”わたし”の部分を細やかに慈しみ、そうすることで全体の健康を護るためにあるのです。
リトリートに参加できるのはアーユルヴェーダ季節の料理教室「リアル参加」基礎1年修了した方だけ!

このインドリトリートツアーはeatreat.で開催している「アーユルヴェーダ季節の料理教室」リアル参加のクラスにて、基礎を1年修了した方のみを対象としています。今回リトリートツアーを開催するにあたって、その制限をかけたこと、結果としてとても良かったと思っています。
↑現在、2026年9月〜12月開講の「秋冬コース」の参加者募集中です
私の料理教室は月に一度eatreat.ruciに集まり、各月アーユルヴェーダのコンセプトやドーシャを一つずつ学びながら、みんなで対話をする時間をとても大切にしています。
普段は出会わないような職業の人、年齢の方、出自の方、みんなアーユルヴェーダの前では等しくなって、お互いの話に耳を傾ける。「そんな考え方もあるんだ」「こんな工夫の仕方があるんだな」そんなふうに考えながら、同じことに関心を抱き、学ぶ人同士が集うことそのものに「学びの価値」があると私は思っています。
知識は先生の話を聞けば一方的に頭に入ってきて、なんとなくわかった気になることは誰にでもできます。ただ、知識は智慧に還元しなければならない。冒頭でもお伝えした通り、インド生まれの、ヒンドゥーベースのアーユルヴェーダは、実は地球全体にひらかれた智慧で、受け取る人それぞれが自分の立つ場所の条件をもとに紐解かなければ理解することができないのです。
同じ場所に集い、互いの話に傾聴しながら学びを進めることで得られる「学びの価値」は一見複雑に見えて実はすぐそばにあるアーユルヴェーダを、穏やかに自分の暮らしに受け入れることを可能にします。そうやって少しずつ、1年の季節の巡りを観察しながらアーユルヴェーダのある暮らしを体感してきた生徒さんたちだから、遠いインドの地で誰一人体調も崩さず、むしろ元気になって帰国することができたのだと思います。

ツアーに際し、maitrii herbsのめぐちゃんからは大きな愛の贈り物を日々、受け取りました。みんな彼女のたおやかで明るい月の光のような笑顔があったから、安心してバルカラで過ごすことができたと思います。
めぐちゃんも、参加した生徒さんみんなも、これから歩んでいく道がどうか花のようにうつくしいものでありますように。心から願っています。