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「治る」にこだわらないアーユルヴェーダの人生の捉え方_『急に具合が悪くなる』に寄せて

少し前に来てくださったお客さまが「アーユルヴェーダをどうにか事業化してもっと広く認知されないものだろうか」と真剣に話してくださった。

わたしも世界の片隅でアーユルヴェーダにまつわる仕事ができていることに感謝しているし、数多くの人が健やかに回復する姿を見ているので、彼が言わんとしていることはよく分かった。ビジネスで儲けたいのではなく、儲かるくらいスケールすることで、人を多く救うことができると言ってるのだ。

ただ、このスケールする、というのはとても難しいことで、アーユルヴェーダの話が長く濃く深淵で展開しづらいことには意味があるので、広げるときには広げようとして広げるのではなく、気づいた時には広がるようにして広げるというのが肝心だと思っている。そんなこともあって、安易にマークティングされたアーユルヴェーダサービスをたまに見かけると、中身が空っぽで閉口してしまう。

とても爽やかなサラリーマンのおじさまが、そんなに真剣に「アーユルヴェーダがどうにかもっと広く認知されないか」と言っている姿は興味深い。そういう事象が起きていること自体、普通ではないからだ。実際、明らかにアーユルヴェーダに興味を抱く人は増えているし、それは今という時代を象徴する何かがそこにあることの表れだと思う。

ところで、遡ること1ヶ月半前に『急に具合が悪くなる』を観た。いま原作も読んでいて、このすばらしい原作があのような映画に昇華されて、さらにその映画が評判を呼んでいることも素敵なことだと思う。

3時間もある長いこの映画にはたくさんの光の粒が散りばめられている。

その中でも特にわたしに眩しく映ったのは、もう助かることのない重い病にかかった人が、今という点を見つめて、そこからひらいていく想定外の日々の幸せに感謝して、その温かい光に物語が包まれていることだった。

重い病に罹患した際、西洋医学の観点では、確率論に基づいてその後の人生の一つ一つの選択に具体的なリスクが提示される。治療で投与される薬の副作用はもちろんのこと、旅行などの大きな動きから、身につける衣服のような小さな選択まで、これをこうすると病に対してこんなリスクがあると提示されて、誘われる通りに安全でできるだけ延命するようにその選択を踏んでいるはずなのに、歩いていく道はどんどん細くなっていって、気づいたらすっかり袋小路だ。

道の先の方には光に照らされた優しい草原でも見えるかと言えばそうではなくて、暗く小さな部屋への入り口が見える。

わかりやすい病名がついた病に罹患していても罹患していなくても、人が避けようのない病に「死」が存在する。今の所それを避けることができないのが人間なのだから、その「死」という病に向かってどう歩いていくか、それは人間全員が考えながら生きるチャンスは与えられている。避けようがない死を意識する時、リスクヘッジを重視して安全で予測されてる分あまり面白くない道を歩くか、確率論に背を向けて好きなように自分で道を作って歩いていくか、その自由はその人の掌の中にある。

前者を選び確率論に従う人は多数いる。なぜか。みんな「治りたい」からだと思う。そしてそれは決して間違っていないし、結果として西洋医学の治療によって「治る」ことに成功する人はたくさん存在する。その後また、確率論に従いながら「再発」の可能性に怯える不安はなくならないのだけど。

一方で、代替医療の世界にあるのは「治る」ことだけが人生の正解ではないということだ。「治りたい」「痛みから逃れたい」という執着すらもできることなら手放せるように、それでも発生する痛みを和らげるようにあたたかく人を滋養するケアが多数ある。

「治る」ことにしがみつくのではなく、いずれにしてもたどり着く最後の終着点まで、可能性ではなく今目の前のことに集中して選択していくとき、後から振り返ったら思いのほか温かな光に溢れた柔らかい道のりだったということがありうる。

その裏で、「治る」ことにこだわって、どんどん細く限られた道を歩いていって、結局治らず、本当は期待していた未来なんて全然起こらなくて、あっという間に終わりまで来てしまったということだってありうるのだ。

「治ることにしがみつく」なんて、読む人によってはもしかしたら苦しい思いをさせるかもしれない言い回しで書いてしまった。しかし、わたしは1年前に、短く苦しく、でもとても立派に闘病をした弟を亡くしたので、一応この言葉を書いても良い権利があると思う。

人が病に罹患したときに、確率論に裏打ちされた「治る」かもしれない治療に全力投球せざるを得ないのは、やっぱり家族とか友達とか、自分だけの命じゃないと思わされる存在がいるからで、それはそれでとても愛おしいことである。

できれば「いつか死ぬんだから」なんて言わないで「治るように頑張るからさ」と言って、副作用だらけの苦しい治療にだって挑みたいのが人間なのだ。

それでも、とアーユルヴェーダは言う。人はみんな本当は一人。突き詰めれば自分だけの幸せを選択して良いのだし、難しい病気にかかったのならもう全て放り投げて、目の前の道をできるだけ楽しい方に歩いていくことだってできる。

リスクヘッジばかりしていないで、海のそばで、山の風を浴びて、美味しいものを食べて、マッサージを受けて、毎日十分にストレッチも散歩もして、深呼吸して、明るい話をして、そうしていたら「治りたい」と期待していたことすら忘れて、いつの間にか治っているなんていう未来に出逢うことだってできる。

アーユルヴェーダに摩訶不思議な薬があるわけではないので、早寝早起きして、ディナチャリヤは続けて、ささやかなことに日々感謝し、良いものを食べ、運動するといった「当たり前の健やかな暮らし」はしてもらう必要があるのだけど。

長く営んでいるアーユルヴェーダの料理教室に、西洋医学のお医者様や看護師さんが生徒さんとしてくる機会がどんどん増えている。それは西洋医学の現場に限界があるのではなく、双方の可能性を信じて橋が渡る日が来る未来を想像するに繋がる。

アーユルヴェーダはあくまで「代替医療」だ。代替というのは西洋医学に代わって、というカウンターの存在であることを指している。わたしはそれで良いと思うし、それぞれに役割があり本当に人の命の健やかさを願う現場の人たちはお互いを否定せずに、双方を認め合いながら患者と向き合っている。

これだけ情報が速く消費される時代に、アーユルヴェーダのように話が長く濃く深遠な世界のもとにもう一度光が当たり、治るか治らないかの一元論ではなく、病と共に生きる過程のなかにどれだけその人の命に光が当たる偶発性があるか、そういう話に人が関心を持つようになったことが、ただただ嬉しい。

いつか自分が病に罹患するようなことがあったり、そんなことがなくても避けようがない最後の終着点に向かって歩いていく残り半生の道のりに、自分との信頼関係に基づいた健やかな選択が一つでも多いように生活を続けていきたいと思っている。